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夢で誰かが呼んでいる
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先月と同様に、ゼロスが彼女の許へ一ヶ月ぶりにやってきた時、彼女はカフェテラスで一人新聞を読んでいた。 以前までは新聞や本を読んでいる事は滅多になかったのだが、恐らく悪魔がいなくなった事に関係しているのだろうと思う。 悪魔がいた時は、悪魔達によってありとあらゆる知識が齎される。けれど彼らがいなくなってしまった以上、情報は自分で得なければならない。 ただぼーっと過ごしているだけでは、情報は得られない。 そんな事を感じながら、ゼロスはいつものように何食わぬ顔で彼女の座るテーブルの空いている席に座った。 「さん」 目の前に座る彼女の名を呼んでみる。だが反応はない。 先月と同様に、その目が羅列された文字から離れる様子はなかった。 「さん」 「……何」 集中して聞こえなかった可能性を考慮し、彼女の無反応さを見つつ、ゼロスはもう一度彼女の名を呼んでみた。 ぺらりと捲りながら、淡々とした声音が返る。若干の怒気を孕み。 「さん」 「……だから何」 聞こえている――それは判ったが、矢張り彼女の視線がゼロスに向く事がなかったので、もう一押しとばかりにゼロスは彼女の名を呼ぶ。 若干の怒気が、明らかな怒気になって言葉に含まれる。 けれど彼女の視線が上がる事はそれでもなかった。 「さん!」 「だから何って言ってるだろう!」 強めに彼女の名を呼べば、それにつられたように彼女も溜まった怒りを吐き出すように応えた。 ばたんと右手で本を力強く閉じ、怒りを込めた双眸でゼロスを見やる。だがそれで動じるゼロスでは当然なかった。 彼女の視線が漸く自分に向けられ、ゼロスはにこにこといつもの笑みを深めた。 「だってさん、僕の方を見てくれないので」 「話は聞いてるんだからいいじゃないか」 「さんとは、顔を向き合わせて喋りたいです」 「君とは、顔を逸らして話したいかな」 「あ、照れ隠しですね!」 「違うッ」 苛々した様子を見せる彼女に、ゼロスはいつもの調子で笑って要望を告げる。 気持ち的な抵抗として、視線を再び逸らして話を進めてみるものの、嬉しそうな声音に無意味な抵抗であると察する。 怒りの余り怒ると同時にゼロスを見てしまったのは、ゼロスが自分より上手でその戦略に嵌ってしまったからだと、彼女自身自覚していた。だからこそ、余計に怒りが先行した。 「……それで、結局何」 取り敢えず取り止めのない下らない話にしかなりそうになかったので、用件は何かとせっつく。 彼女のとの会話が楽しくて仕方ないゼロスは、少しでも無駄話を長引かせようとしているのか、用件を言えと言わなければ本題に移ろうとしない。 「言った通りです」 「は? ……言った通りって」 急かしたにも拘らず、意図の判らない回答が返ってきて、彼女は耳を疑った。何を言っているのかと、信じられないものを見る目でゼロスを見やる。 しかし浮かべられているのはいつもの笑みで、表情から意図を読み取る事は出来ない。 仕方がないので今までの会話を反芻してみるが、それらしき理由は思い出せなかった。それを視線で訴えると、ゼロスは人差し指を立て、自身を指差した。 「さんに僕を見て欲しかったので」 余りのどうでもいい――予想していない返答に、今度はがくりと机に項垂れる。 怒りを通り越して呆れしか出てこない。確かに先程、見てくれないのでと言っていたが、それは何度も呼んだ理由であって、そもそもの呼んだ理由ではないと思っていた。 「用もないのに呼ぶのはやめてくれないかな……」 「用ならありますって。僕を見て欲しいなって言う用事が」 「それは用事じゃなくて要望だ」 がくりと頭を落とした体勢で、呆れたものを見る目でゼロスを見上げる。 素知らぬ顔のいつもの笑顔が目に入り、彼女は頭が痛いと思った。折角落ち着いて本を読んでいたと言うのに、その気分も台無しである。 「あ、ありました」 「……本当に?」 どう追い払おうか考え始めたところで、思い出したように掌に拳をぽんと置いて、やにわにゼロスはそう言った。 せっついて確かめた結果が余りに下らなかった為、思い出してもどうせ同じ種類のものに違いないと、疑いの目でゼロスを見やる。 「さん、僕の名前を呼んで下さい」 「何で」 「お願いします」 先程より意図の読めない要望に、彼女は戸惑った。 そして矢張り用件ではなく要望で、若干の抵抗も覚えたが、にこにことした表情の儘、重ねてお願いされたので、本気で断るに断れなかった。 「……ゼロス」 「はい」 余りいい展開にならない事は予想しつつ、要望に応えたらどうなるのか――それが気にならなかった訳でもない。 仕方ないと思いつつ控え目に呼べば、嬉しそうな声音でゼロスは応えた。 一度名前を呼んでから、暫くじっとゼロスを見つめ動向を窺ったが、返事をしただけでそれ以上何かを言う様子は見られなかった。 「それで、何なんだ」 「言った通りです」 何か言うのかと待っても何も言う様子がなかったので、改めて真意を確認する。だが結局、眉間に皺を寄せたくなるような回答しか返ってこなかった。 意味も判らず名前を呼ばされ、理由を訊いても意味が判らない。 テーブルに左肘を置き指を額に当てて溜息を吐く。 「……あのね、判りづらい話は疲れるからやめてくれないか。煩くて煩わしくて面倒臭くなってくる」 こうして考えて話しているのも馬鹿らしく思えてくる。 本を開き、今度こそ無視を決め込もうかとも思ってみるが、これまでのストーカーぶりから考えても、何処かに行けと言わない限り、無視をしても話しかけ続けられるだろう。 「それは困ります」 「なら、もう少し伝える努力をしてくれ」 今度は真顔で引止めにきた。 そう言うなら真面目に話せばいいのにと彼女はゼロスを睨み訴えるが、真顔だった表情がいつもの笑みに変わる。 真顔を見せても結局のところいつも通りで、彼女はもう一度溜息を吐いた。 「はあ、でも言葉の通り、名前を呼んで欲しいなと思いまして」 「名前を呼んでどうなるのさ」 「嬉しいです」 確かに、先程名前を呼んだ時、ゼロスは嬉しそうにした。 だが、改めて確認したにも拘らずそんな理由なのかと、もう一度耳を疑う羽目になるとは思いもしなかった。 言葉の裏には何かある――ただの言葉でも、人が誤解するような物言いをする。そのゼロスが、本当に単純に言葉通りの要求をするのも信じられない。 「……君を喜ばすなんて正直気分が悪くなる」 「酷い事言いますねえ」 「余り私にいい結果になった試しがないからね」 喜ばせていい事になった試しはないし、何より普段から浮かべられている笑みに、喜びが滲むようになるのかと考えると、嫌悪感が増す。 尤も、同じ笑みでも彼女に向けるものには、喜びが混じっている――それは、今に始まった事でもないのだが。 ( 後書き ) 長くなったので一区切り。 子犬みたいに名前を呼んでついてこられたりしたら、 可愛いんじゃないかと思ってのネタ。 あと、ゼロスは無駄に名前を呼びそうだなあと言う印象から。 ハート撒き散らしながら夢主に話しかけるゼロスの図。 |