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午前零時、夢を見忘れた

 海を目の前に――彼女は、不意に呟いた。
 ゼロスが一ヶ月の一度、いつも通り彼女を勧誘する為に訪れた時――漁港として栄えたとある町の高台に彼女はいた。
 ゼロスには背を向け、水平線に広がる海を眺めていた。
 その時彼女は――ゼロスが来るまで、異世界で旅した海を思い出していた。
 あの大海原の中、一度だけ、この記憶を手放した事があったなと――思い出していたところに、ゼロスが現れた。


「私が記憶喪失になったらどうする?」


 記憶を一時的に失ったのは悪魔達の仕業――悩む彼女の事を思って悪魔達がした事だった。
 けれど結局彼女は自分の意志で、記憶を失っても意味がないと結論付け、記憶を取り戻すに至った。だから事故でも起きない限り、もう一度この記憶を失う事はないだろう。
 そう思いながら、ただそれはゼロスには伝わらない話だと認識しながら、意地の悪い疑問をゼロスに投げる。
 少しゼロスを挑発するように、笑って。


「記憶を取り戻す努力をします」

「……意外だね」

「そうですか?」


 だが彼女の挑発も意に介さないいつもの調子で、いつもの笑みを浮かべた儘何でもないとばかりにゼロスは応えた。
 予想していた一つの答ではあったものの、想像より素直で彼女は驚いた。


「てっきり、嘘を吹き込むものだと思ったよ」

「それは記憶が戻った時が怖いですから」


 思っていた事を告げれば、ゼロスは苦笑を浮かべて理由を言った。
 まあそれは単なる建前だろうと思い、取り敢えずなるほど、と納得する。嘘は吐かない――その主義も理由の一つなのだろう。
 とは言え嘘にならない程度の、言葉の受け取り方の違いで意味が変わってくるようなニュアンスで、自分につい手を吹き込むのではないか――そう思ったので、矢張り返答は意外だった。
 尤も、記憶を取り戻すと応えただけで、嘘を吹き込まないと言っている訳でない為、信用は矢張り出来ない。


「尤も、多少記憶喪失になったところで、さんの人となりが変わるとは思いませんが」


 実際その通りだった事をさらりと当てられ、彼女は笑ってしまいそうになった。
 だが此処で変に笑ってしまうと不審がられるので、何とか堪える。正直なところ、記憶喪失になった時どうだったか――それをゼロスに話す訳にはいかなかった。
 記憶に固執した理由を考えると、余り認めたくない部分もあったからである。


「つまり?」

「つまり、記憶がなくなったところで僕のさんへの想いが消える事はないと言う事です」


 真顔で言うでもなく、いつもの笑みを浮かべた儘の表情が――その言葉の信憑性を上げている。
 問いかける時、何故そんな事をと少しでも取り乱すだろうかと彼女は考えたが、全く動じた様子もなく、堂々と言ってのけるので、逆に尋ねた彼女の方が恥ずかしくなってしまった。
 本当に――異世界の旅の中、彼女が悩みに悩んだ事が杞憂だったと思い知る。


「ではさん。僕が記憶喪失になったら、どうします?」


 彼女に何かを言い出す様子がないのを確認した上で、ゼロスは彼女に問い返した。
 まさか自分が尋ねた事柄がその儘返ってくるとは思っていなかった彼女は、一瞬何を言っているのかと理解出来ないとばかりに眉を顰めたが、やがてその表情は真面目なものになった。


「私と君は赤の他人なのでと言って去る」

「ええっ、それはちょっと、薄情じゃないですかね……」


 真顔で何を言ってくれるのだろう――と、気持ち期待したゼロスだったが、余りに彼女らしい回答でがくりと肩を落とす。
 少しは自分の想いを伝えられたのではないか期待しての問いだった分、自分と違い通常運転だった彼女には、苦笑を浮かべるしかない。


「私が情に深い人間だと?」

「はい、さんは何だかんだで優しい方です」

「ちょっと君は夢を見過ぎているようだね」

「そんな事ありませんよ」


 自分がゼロスにどう思われているのか、それを不審そうに感じている彼女に、ゼロスは経験上知るに至った彼女の性質を告げる。
 だが自分自身の事にも拘らず、ゼロスの言う自分像に彼女は理解出来ないと言う表情を浮かべた。
 理解出来ないと思いつつ、余り認めたくないのだろうと彼女の様子を見ながらゼロスは思う。
 たとえ夢を見すぎているとしても――ゼロスが夢見て理想を掲げる彼女は、現実の彼女ありきなのだと。
 ――それから、一ヵ月後。
 漁港の町を離れ、彼女は森に囲まれた街道を一人歩いていた。
 そろそろ来る時期だと思っていた時、感じ慣れた厭な気配と共に、視線の先にゼロスが現れた。
 いつもなら基本的に目的である彼女を正面に現れるのだが、その時は何故か、彼女に背を向けた形で現れた。
 見た目はそれくらいの違いしかなかったが、何となく――変な緊張感を、彼女は感じた。


「……ゼロス?」


 背中を向けた儘此方を見ず行く先に立っているゼロスに、小さく声をかける。
 その先に何かあるのだろうかと言う気持ちと、いつもと異なる空気に思わず声が小さくなってしまった。認めたくない小さな怖さが、声音を震わせている。


「貴方は……誰ですか?」


 その言葉は、声と共に彼女の希望を風ごと攫っていった。
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( 後書き )

今回の話は、散々夢主がトリップ先で悩んだ事がもしも現実化してしまったら、
と言う事で話になりました。
あと、それを思い出しつつワンピ世界での記憶喪失夢主も織り交ぜて。
あのワンピの記憶喪失夢主を今度はゼロスに、と言うのも考えてみましたが、
それ単純に子供の頃の夢主とゼロスじゃないかな、と思ってネタにならず。
子供時代も、何かネタがあれば書きたいです。